目次
はじめに
本記事は、現代思想 2019年11月号 特集「反出生主義を考える」を読み進める上での私の備忘録です。
私は本書をまだ読了していないため、この備忘録は未完成であり、常に内容が変更され得ることをご了承の上でお読みください。
討議「生きることの意味を問う哲学」を読んで
本章では、本書 8 ページから 19 ページにある討議「生きることの意味を問う哲学」の要約と読んだ上での感想を示します。
要約
本章では森岡正博および戸谷洋志による討議が行われています。 森岡は自らの内面にある「生まれてこないほうがよかった」という思いにどのように反論していくかを考えたいということを反出生主義を研究する動機の一つに挙げています。 戸谷は出生主義を立場とするヨナスの研究者であり、それによって反出生主義についてどのように思うかを聞かれる中でベネターについて考えるようになったと述べています。
まず、本章では反出生主義の分析哲学的な側面について触れつつ、眼前にある切羽詰まった実存的な側面についても述べられていました。
その上で、ベネターとその前後左右の周辺の哲学者による主張や議論について示されました。例えば、ショーペンハウアーがレトリカルに表現した「生まれてくることで得られる快楽がいくらあっても、生まれてくることで発生した一滴の苦痛には勝らない」という主張を、ベネターが分析哲学を用いて論理的に示そうとしたことの重要性について述べられています。他にも、エーデルマンというクィア理論の思想家が示した生殖を前提とした社会の生殖をしない人々に対する暴力性について示されるなど、現代思想とのつながりが示唆されます。
次に、生まれることが誰にとって良い/悪いのかについて論じられました。ここでは、ドラえもんの「ぼくが生まれた日」というエピソードに対する考察を皮切りに、「生まれてこなければよかった」という言葉の視点はさまざまであり、それによって反出生主義そのものが暴力性を持つということが述べられていました。加えて、反出生主義と自殺が関連しないものであるということについても言及されています。
そして、出生主義もまた暴力的であることが述べられています。出生主義はあくまで出生を公共のためとしているのであって、出生させられた子どもに対する暴力を解決するものではないからです。
(未完)
感想
暴力とは何か
反出生主義とは分析哲学的なアプローチに基づいている側面があると認識していますが、哲学について学んだことがない私がそのアプローチについて本書から具体的に知ろうとすると、まず初めにここで書かれている「暴力」とは何かを理解できずにつまずきました。
以下に本書を引用します。
「われわれはいったいどのような理由で新たな人間の命をこの世に生み出していいと言えるのか」という問題が重要な問いとして出されている
親が子どもを生むとき、子どもを一方的に作っているわけですが、それは生まれてくる子にしてみれば暴力です。
ここでいう「暴力」というのが「物理的な強制力」だと定義してしまうと、実社会において物理的な強制力が社会の秩序を保っている側面があるように、必ずしも物理的な強制力が悪だとはいえないため、主張としては弱くなります。
よって、ここでの「暴力」の定義によって、ここでは「暴力」を「物理的な強制力」とは異なる絶対的に悪である何かに読み替えて議論を進めるべきか、「親が子どもを生むという物理的な強制は善か悪か」という問いについて議論するべきかが変わってしまいます。もちろんそれぞれのケースごとに議論を進めることもできるとは思うのですが、そのような進め方を続けることは組み合わせ的な爆発を発生させかねないので、議論の進行を著しく阻害する恐れがあります。
とはいえ、ベネターの著書を読めばこれらが明らかになるかもしれませんし、本書の別頁にて述べられているかもしれませんから、ひとまずここは読み進めます。